オレンジグループの採用サイトを見てくれてありがとう。
私は西山浩宣、オレンジグループ(株式会社Sign)の代表を務めさせてもらっている。
会社の事に加えて私の事も知ってもらいたいので、少しだけ聞いてほしい(ごめんねw)

寂しい思いをした幼少期

千葉県船橋市に生まれて両親が居酒屋をやっていた為、
俗に言うお出かけの時間は皆無に等しかった。
幼稚園から帰ってきて、次に向かう場所は
翌朝まで衣食住を他の園児や保育士の先生と過ごす夜間保育と呼ばれる園だった。

僕はその園に小学校に上がっても通っていた。
保育士の先生から 『最長学年更新よ~』と言われた事を幼いながらに覚えている。

それ位の年になると記憶もしっかり残ってるし、今考えるともっと甘えれば良いじゃん。
と思えるが僕は一切だだを捏ねなかった。
最年長としてのちっぽけなプライドなのか、周りからお兄ちゃん!お兄ちゃん!と
頼ってもらえる事を精一杯全うしていた。
ただ夜は幼い子たちが早めに就寝する為、私はいつも最後で怖いし、寂しかった。

唯一、寂しさから救ってくれていたのは、マジンガーzのおもちゃだった。
真っ暗な室内で布団に潜り込んで一瞬だけ眩い光を発し、
誇らしげに自分の名前を永遠繰り返すマジンガーさんに僕は助けられた。(おもちゃってスゴイ!)



楽しくノビノビと暮らせた
お手伝いさんとの生活

夜間保育もこれ以上は預かるのが困難になってきた頃、次の同居人は年配のお手伝いさんだった。

今思えば、ガッキーみたいな人が来てほしかった。当時だけでなく、
今でも珍しいと思うがお手伝いさんが 『自宅に来て』では無く、お手伝いさんの家に行っての共同生活。俺の家はどこだよ笑。と思っていたが言葉には出さずお手伝いさんとの共同生活は続いた。

生活は楽しかった。両親じゃない為、ババアなど暴言言い放題、時にはとことん困らせてやろうと思い、一日中泣いた日もあった。家出も月イチペース。

今思うとクソ生意気で取っ組み合いも日常茶飯事。
This is 小学生がお手伝いさんのお陰で出来ていた。

あと毎年冬休みは生家である秋田へ寝台列車で連れて行ってくれた。
朝起きて窓を見ると一面雪景色で異世界に飛び込んだ感覚が大好きだった。

それなりに楽しい生活だったが、母の事業が終了した事もあり小学2年生の終わりで
僕はやっと自分の家と言う安息の地を得ることができた。

ちなみに母の名誉の為に話すが、寂しい思いはしてきたが可哀そうな子では無かった。
寧ろその生活のお陰でたまに出かける家族との時間はとてつもなく楽しく鮮明に覚えている。

川にバーベキューをしに行きそこで釣ったイワナの美味しさ、
散歩と言って車で行った室内スキー場、いつも突然だったが当時のことはハッキリと思い出せる。



人生を変えた
同級生とのキャッチボール

小学3年生になった僕は、今で言う陰キャだった。
小さい頃から同学年と遊んだ事も無ければ友達の家に行ったことも無い僕は、クラスの中で完全に浮いた存在だった。
そんな中、人生を変える出来事が昼休みのドッチボールをやっている時に起こった。
いつも雑魚扱いだった僕が当時クラスの中心に居た前田君の剛速球をたまたまキャッチしたのだ。

えっ?そんな事?と思われるかも知れないが、僕の人生の中で一番歓声を浴びて尊敬された場面だった。
正に良く漫画で出てくるアレ。僕を中心にして同級生全員が僕の方を見て拍手している状態。

でもそこから変わった。
毎朝6時に起きてマンションの壁にボールを投げてキャッチする練習の毎日。
言っちゃ悪いが他の小学生とは歩んできた道も違ければ、ハングリーさも違う。

そこからはあっという間に人気者の仲間入りだった。人気者だった前田君へも「オイ、前田。」(ジャイアンみたいだな(笑))
雑魚だった僕は「さっちゃん。」と呼ばれるようになった。

4年生からは、必ず部活に入らないといけないと勘違いし、経験も無いソフトボール部に入部した。
ただドッチボールの『こそ練』は続けていたので、初心者にも関わらず肩が強いと言う理由だけでピッチャーをやる事になった。

楽しいのもちろんだが、【チーム】と言う無敵感と【仲間】と言う一体感が一歩間違えればグレていた僕を留まらせてくれたと思う。
(店舗を展開し仲間を増やしていきたい気持ちはここからだと思う)

更に試合になると母は欠かさず応援に来てくれていた。それが何より嬉しかった。



モテ期到来!中学時代

興味が出ると夢中でやり続ける性格も合わさって、すぐにライトのレギュラーと二番手のピッチャーに定着した。
試合が無ければ平日だけの活動だった為、5年生になってからは少年野球チームにも入部して言葉通り毎日ボール漬けの毎日だった。

手前みそだが運動神経は良く、ボールを使った競技は多少上手かった。ソフトに関しては6年生で千葉県No.1ピッチャーと言われるまでになり関東大会でも結果も残せた。

5年生から始めた野球も副キャプテンでクリーンナップを任され、中学に入ってからは県大会で準優勝、選抜にも選ばれ、
モテ期を過ごした。(僕の人生のモテ期は以上です)



一生の仕事を見つけた中学3年生

そんな時中学最後の大会前に肘のケガ(離断性骨軟骨炎)をした。
しかし3番ファーストで全試合出場、キャリアハイの成績で強豪校3校から特待生推薦のオファーも来たが、将来プロ野球選手になるよりもっと叶えたい夢を見つけてしまった。

それは接骨院の先生。
夢と言うより自分が感無量?でその場に居るイメージが鮮明に出来てしまった。

ちなみに、この仕事を目指す学生さんに良くある、先生にお世話になって私も困っている選手を助けたい。
僕はそれとは少し違って、通っている接骨院の空間に居るのがたまらなく心地良かったのが理由だった。
なぜなら、僕は野球の練習に参加したい為だけに放課後ではなく、朝イチで接骨院に通いその後登校していた。(良く許されてたなぁ(笑))

今では考えられないが、当時の治療院での朝行列はすごい。
9時開院であっても1時間前には10~20人は外で待っている。(寧ろ先生達より早い出勤(笑))

流石に僕も昼登校は気が引けるので朝イチに施術してもらうために並んでいた。
おじいちゃん、おばあちゃん集団の中で一人学生服の僕は浮いていただろう。

ただ日を追うごとにみんなが受け入れてくれた。お菓子食べるかい?これ持っていきな。浩くんが先にやってもらいな。(今書くと恥ずかしいな (笑))

待っている時間も診療中の先生と患者さんとの掛け合いの空間もそこに居るだけで心地よかった。
僕は中学3年生でこの空間で働きたい。一生の仕事にすると決めた。
そして5年後その治療院から治療家人生をスタートさせた。



色々な経験をしてきた私が
大切にしているもの

それは、幼い頃から今までの経験で感じてきた仲間や空間。これは昔も現在も変わらずです。
さらに大企業が掲げるビジョンや会社の使命などは今現在もありません。

ちなみにSignの社名は
『患者様、スタッフすべてのサインを見逃さず、一人ひとりのゴールまで共にする』
そんな想いから誕生しています。

目の前の患者さんの幸せ無くして、 スタッフの幸せ無し。スタッフの幸せ無くして会社の幸せ無し。
それらすべててが達成した時、私の幸せが訪れるという想いの積み重ねで今があります。
患者様、スタッフ、会社が真剣に関わり、共に幸せになっていくという考えで経営しています。

学生のうちから目標や目的が定まってなくても良い。
少しずつ仕事を覚えて、自分の志事とは何か?共に考え悩みながら成長出来る仲間と僕は志事をしていきたい。



個々が活き活きして
成長出来るように!
スタッフへの約束13か条

N0.1ではなくOnly1を
目指します
社長を増やし続けます
教育に関して投資を
惜しみません
進化(成長)を
止めません
キャリアに捉われません
クビをきりません
ファミリーの声を
蔑ろにしません
ファミリーファーストで
行動します
数字のみの
評価はしません
技術を磨く時間は
会社が用意します
女性が活躍できる場を
常に意識します
全スタッフに産休育休を
与えます
スーツは着ません